キムローの部屋

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バビロンの大富豪の教えは滅びの教えなのだろうか?

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世界的大ベストセラーの金融関連の本はいくつかありますが・・

 

『バビロンの大富豪の教え』は、その中でもかなり有名なのでは無いでしょうか?

 
古代バビロニアとは、大昔に栄華を極めた大国です。金融の仕組みが、その時代としてはかなり進んでいたことで有名です。今の金融の仕組みの礎になったとも言われています。
 
物語は、古代バビロニアの遺跡からある石板が掘り出されたところから始まります。
そこに記されていたのは、金融知識が豊富な古代バビロニア人が書いた金持ちになる方法だった・・

バビロニア人の大富豪の教えとは?

この本の主人公は、貧しい家に生まれた少年。彼は金持ちになる為、バビロニア帝国のお金持ちに教えをこぎます。

 

一体、なぜ金持ちと貧乏人がいるのか??

どうしたら金持ちになれるのか?

古代バビロニアのお金持ちになる7つの道具は、今の時代でも通じる至ってシンプルです。

  1. 収入の10%を貯金する

  2. 欲しいものに優先順位をつける

  3. 貯めたお金を働かせる

  4. そのお金を守る

  5. 良い土地、良い家に住め

  6. 未来の生活に備える

  7. 自分にこそ投資をする

 

これ凄いシンプル!!紀元前から言われている、お金持ちになる方法です。

 

自分の収入の1割を貯金する。残り9割で買えない物は諦める。だからこそ欲しいものに優先順位をつける。

そして、貯めたお金を投資して複利の力で増やす!!

お金を失わないために、守りの投資も忘れずに!!

更に、未来への生活を考えてそれを継続する!!

自分こそを最大の資本であり、健康を維持しないとお金がいくらあっても意味が無いですからね~~

 

 

結局、いつの時代もお金持ちになる方法は、至ってシンプル!!同じ事です。古代バビロニア人は、非常に金融レベルが飛びぬけていたことが分かりますね。こうやって人は金持ちになるのです!!

 

 

バビロンの大富豪の教えは滅びの教え?

当然のことながら、古代バビロニア王国は滅びます。今ないですから・・

 

紀元前でありながら、今でも通用する金融知識を誇った大国がなぜ滅んだのか??

 

 

そもそも古代バビロニア帝国とは?

バビロニア古希ΒαβυλωνίαBabylonia)、またはバビュロニアは、現代のイラク南部、ティグリス川ユーフラテス川下流の沖積平野一帯を指す歴史地理的領域である。南北は概ね現在のバグダード周辺からペルシア湾まで、東西はザグロス山脈からシリア砂漠アラビア砂漠までの範囲に相当する[1]。その中心都市バビロンは『旧約聖書』に代表される伝説によって現代でも有名である。バビロニアは古代においては更に南部のシュメール地方と北部のアッカド地方に大別され、「シュメールとアッカドの地」という表現で呼ばれていた[1]

バビロニアは世界で最も古くから農耕が行われている地域の一つであり、前4000年期には既に中東の広い範囲との間に交易ネットワークが張り巡らされていた。前3000年期には文字が使用され始めた。初めて文字システム体系を構築したシュメール人やアッカド人たちはバビロニア南部でウルウルクニップルラガシュなどに代表される多数の都市国家を構築し、前3000年期後半にはアッカド帝国がバビロニアを含むメソポタミア全域への支配を打ち立て、更にウル第三王朝がそれに続いた。

前2000年期に入ると、アムル人(アモリ人)と呼ばれる人々がメソポタミア全域で多数の王朝を打ち立てた。その内の一つでバビロンに勃興したバビロン第1王朝は、ハンムラビ王(在位:前1792年-前1750年)の時代にメソポタミアをほぼ統一し、バビロンが地域の中心都市となる契機を作った。前2000年期後半にはカッシート人が作った王朝(バビロン第3王朝)が支配権を握り、古代オリエント各地の国々と活発に交流を行い、または戦った。カッシート人の王朝は東のエラムとの戦いによって滅亡した。

前1000年期前半にはバビロニアの王朝はアッシリアとの相次ぐ戦いの中で次第に劣勢となり、アッシリアの王ティグラト・ピレセル3世(在位:前745年-前727年)によってその支配下に組み込まれた。アッシリアによるバビロニアの支配は恒常的な反乱にも関わらず、短期間の中断を挟み100年以上継続したが、前625年にカルデア人ナボポラッサル(ナブー・アピル・ウツル、在位:前625年-前605年)がアッシリア人を駆逐し、新バビロニア王国(カルデア王国)を建設したことで終わった。新バビロニアは更に前539年にアケメネス朝(ハカーマニシュ朝)の王キュロス2世(クル2世、在位:前550年-紀元前529年)によって征服され、その帝国の一部となった。アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス3世(大王、在位:前336年-前323年)は遠征の途上、バビロンに入城し、また征服の後はバビロンで死去した。

アレクサンドロス大王の死後、後継者(ディアドコイ)の一人セレウコス1世(在位:前305年-前281年)がバビロニアの支配者となった。彼がバビロニアに新たな拠点としてティグリス河畔のセレウキアを建設するとバビロンの重要性は次第に失われて行き、続くアルサケス朝(アルシャク朝、パルティア王国)時代にはセレウキアとその対岸の都市クテシフォン(テーシフォーン)が完全にバビロニアの中心となってバビロン市は放棄された。それに伴い、シュメール時代から続けられていた楔形文字による文字体系も失われ、古くから伝承されたシュメール語バビロニア語の文学的伝統も途絶えた。

バビロニアは法律文学宗教芸術数学天文学などが発達した古代オリエント文明の中心地であり、多くの遺産が後代の文明に引き継がれた。政治体制は基本的に都市国家的な性格を強く残し、地域全体を包括する政治的統一が成し遂げられたのは特定の時代に限られる。アムル人、カッシート人、アラム人など外部からの頻繁な移住が行われ、地元の住民と衝突、混交した。地域の中心的な言語はシュメール語及びアッカド語(バビロニア語)からアラム語へと移り変わり、アレクサンドロス3世(大王)による征服の後にはギリシア語も普及した。

なお、歴史上のどの時点からをバビロニアと呼び、またそれはいつまでであるのかについて明確な定義があるわけではない。本項では便宜上、バビロン市が史料に初めて登場するアッカド帝国時代前後から、バビロン市が完全に放棄され楔形文字による文字記録が途絶えるまでを中心として述べる。現在において年代が確実な最期の楔形文字文書は西暦74/75年の天文記録であり、年代不明の文書の一部は1世紀以降まで時代が下る可能性がある。

引用元:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%93%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%A2

 

 

古代バビロニア帝国で最も有名な話と言えば・・

 

”バベルの塔の話”ではないでしょうか? 

確かに、ずば抜けた金融知識を持った、バビロニア人でしたが・・

次第に傲慢になっていき、最終的には天にまで届く塔を作ることを計画します。

 

神の怒りを受けたバビロニア人は、塔を破壊され滅ぼされます!!

 

あまりにもお金を持ちすぎ、傲慢になったのが神の怒りを買ったみたいです。

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これは今の人間にも言えることではないだろうか??

お金を持ちすぎた人間は、さらに豊かになる事を求め・・

地球・・果ては宇宙をも自分たちが掌握しようと・・

 

いつの日か、古代バビロニア人みたいにならないといいですがね(笑)

 

 

因みに、現在世界一高いビルが、ドバイの””ブルジュ・ファリア””です(笑)

高さは829.9m‼

天にも届く塔??

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